文字サイズ
環境設定 使い方 戻る 停止 再生 次へ ふりがな

ブログ記事検索

最近の記事

カテゴリー

投稿カレンダー

2024年7月
« 6月    
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  

年間アーカイブ

最近のコメント

月間アーカイブ

人気のブログ記事

KCLスタッフブログ ~ブックとラック~
2024年6月1日(土)AM12:00|投稿者:KCLスタッフ

江戸の桑名の水事情

こんにちは、かぶらです。
梅雨の気配が近づき、道端の紫陽花にもよく目がとまる季節になりましたね。
雨の日にお気に入りの傘や雨具を身に着けてお出かけするのも楽しいですが、お家でゆっくり読書をするのはいかがでしょうか?
今回は「雨」にちなんで、江戸時代の桑名の水事情についてご紹介したいと思います。

 

 

現代では、どこの家庭でも蛇口をひねれば綺麗な水が流れる桑名ですが、かつては「白く濁った“桑名の蛤水”」と揶揄されたこともありました。
2017年公開のブログ「諸戸家と桑名」でも少しご紹介しましたが、桑名は木曽・揖斐・長良川の河口に位置し、もともと海であった場所に泥砂が堆積してできた低湿地です。
この為、古来から水質が良くなく、少し白く濁った水を「桑名の蛤水」といわれました。

 

江戸時代の桑名のガイドブックともいえる資料、長円寺の僧・義道による『久波奈名所図会 影印校注 上巻』に天正元亀(1570~1592)以前の桑名の様子を描いた絵図があります。
今とは異なる当時の町屋川(現在の員弁川)・大山田川の流れがよくわかります。
※義道と『久波奈名所図会』については、2020年公開ブログ「桑名駅が生まれ変わりました!」にて詳しくご紹介しています。

 

『久波奈名所図会 影印校注 上巻』 より「益田庄桑名三﨑天正元亀以前之圖」

 

町屋川や大山田川から汲んできた水を飲料水として売る「水売り」が成り立ったのも、当時の桑名の水質によるものでした。
しかし、日々川へ水を汲みに行っては町中で売るというのも中々手間がかかります。
そこで、桑名藩第4代藩主・松平定行の命によって、寛永3年(1626)より上水道が建設され、完成したのが御用水道、のちの「町屋御用水」です。

 

全長は吉津屋御門から町屋川水源まで約2キロメートル。
水源から御門までは自然の勾配に従って開渠(かいきょ/*蓋掛けされていない水路)で通され、御門より城下の町へは、地中の樋管を通って水が運ばれます。
江戸時代に造られた飲料用の水道としては、“水道のはじめ”といわれる江戸の神田水道が有名ですが、町屋御用水は全国で6番目にできたもので、当時の桑名の土木技術の高さを窺えます。
『久波奈名所図会 影印校注 下巻』の「鍛冶町御門」の図では、右上に「用水通」が描かれています。

 

『久波奈名所図会 影印校注 下巻』より「鍛冶町御門」

用水通

 

町中を走る用水通が描かれたものは少なく、大変貴重な図です。
用水通を通る水を汲むため、町の所々に水汲井戸を設けて人々は生活用水に使いました。
このような井戸は「通り井」と呼ばれ、江戸の中頃には城内・武家地・町人地を合わせ、200基を越えたと言われています。

 

通り井の賑わいの様子も『久波奈名所図会 影印校注 上巻』に描かれています。

 

『久波奈名所図会 影印校注 上巻』より「通り井」

 

井戸自体は手前の屋根に半分ほど隠れてしまっていますが、石造りの井戸枠が見えます。
一般的な井戸によく見る滑車は設けられていないことから、この井戸は滑車式ではなく、長い竿の付いた釣瓶を使って人々は水を汲んでいたのでしょう。

 

かつて桑名の町中を巡った町屋御用水ですが、明治37年(1904)に諸戸水道が開通したことにより、およそ280年の役目を終えました。
現在では町屋川からの取水口から益世小学校東側に至る区間の約1キロ少々だけが、かろうじて水路としての姿を偲ばせています。
残る大半については、本来の流路すら定かでない部分が多いようです。

 

しかし、昭和37年(1962)9月23日に行われた江戸町から川口町へかけてのガス・水道工事の折に、通り井の遺構である石組みが発見されました。
これは江戸町通り井のうちの一つで、同じ道筋に位置する川口町でも平成2年(1990)3月に通り井の枡が発見されています。
この位置を後世に伝えるため、発見地点の路面には「井」と彫られた目印の石が埋め込まれました。

 

「井」と刻まれた石(2016年スタッフ撮影)

 

「町屋御用水」の解明を目的とした、本格的な発掘調査はこれまで実施されていません。
川口町の通り井遺構のように、道路工事など偶然によるものでなければ中々発見することは難しく、また、体系的な調査が行われないままに終わることがほとんどです。
しかし、平成30年(2018)に市が行った伝馬町の伝馬公園における遺跡発掘調査で、上水道管が初めて敷設された状態で発見されました。
東西方向に複数接続した状態で出土した土管は、瓦と同じように焼かれ、城下の瓦師が大量生産したものではないかと推測されます。
発掘調査で当時の使用状況が具体的に分かったのは初めてで、とても貴重な成果でした。

 

 

 

今回は江戸の桑名の水事情についてご紹介しました。
雨が上がって外へ出た時に、「もしかして、この下に江戸時代の水道が残っているかも?」なんて考えながら桑名の街を歩いてみるのも楽しいかもしれませんね。
お出かけのお伴に『久波奈名所図会』もいかがでしょうか?

 

 

<参考資料>
『久波奈名所図会 影印校注 上巻』(義道/著,工藤 麟渓/挿図,久波奈古典籍刊行会/編集 光書房 1977序 AL292ギ)
『久波奈名所図会 影印校注 下巻』(義道/著,工藤 麟渓/挿図,久波奈古典籍刊行会/編集 光書房 1977あとがき AL292ギ)
『町屋御用水調査報告書』(桑名市教育委員会 2004 L519マ)
『日本の上水 増補改訂』(新人物往来社 1995 AL518ホ)
『中日新聞地方版縮刷版(三重県北勢版) 平成30年9月~12月(2018)』(双光エシックス(制作) 中日新聞社 [2019] L071チ)
※「町屋御用水」の記事は2018年12月6日p15にあり

 

 

<かぶら>

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です