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KCLスタッフブログ ~ブックとラック~
2016年4月4日(月)PM3:47|投稿者:KCLスタッフ

絵図で見る桑名城

「ブックとラック」をご覧のみなさま、こんにちは。
暖かな日差しに誘われて、ぶらりと自転車で出掛ける日が多くなった< かぶら >です。

みなさまは、九華公園のある場所に、以前は城が建っていたことをご存知でしょうか?
公園の西側には、以前の姿を伝える看板があります。

クリックすると拡大します

公園西側にある看板。クリックすると拡大します。

看板に描かれているのは、 “正保城絵図”の桑名城の姿です。

“正保城絵図”は、江戸時代初期、正保年間(1645~1648年)に徳川家光により、諸藩に城絵図を提出するよう命じられました。

ここ桑名藩も勿論絵図を作成しましたので、当館所蔵の『図説正保城絵図』でご覧いただけます。

“正保城絵図”に描かれた桑名城の基礎は、桑名藩初代藩主・本多忠勝が行った“慶長の町割”によって築かれました。
『慶長自記』によれば、忠勝は住民を避難させて城下を取り壊し、整備するという徹底したものだったようです。
時が経つにつれ、その時代の藩主によって修繕・増築がなされ、桑名城は「海道の名城」と謳われるほどとなりました。
しかし、戊辰戦争後、桑名藩は朝敵とされた為、城郭や石垣などは取り壊されてしまいました。
現在、当時の姿を伝えるのはわずかに残った石垣のみです。

ところで、よく時代劇などを見ると、大きな天守閣があって、城壁がその回りをぐるりと囲んでいて・・・
なんてイメージがありますが、桑名城はどうだったのでしょう?

ここから、看板の絵図に沿ってご紹介します。

城中心部

城中心部

桑名城は、本丸・二之丸・三之丸が一直線に並ぶ“連郭式(れんかくしき)”と呼ばれる配置です。
堀は四重で、城中から船で川へ出ることが出来る水城でもありました。

そもそも、本丸って何でしょう?二之丸・三之丸とは一体・・・?
今回は、正保城絵図の桑名城を例に「?」を調べてみましょう!

◆本丸
日本の城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。(『大辞泉 下巻』より)
絵図で見る“本丸”はこちら。

本丸

本丸

天守閣は東北角(拡大画像左上)に建っていました。
正保城絵図に天守閣は「外ハ四重内ハ六重」と書かれ、外見は四層であったことがわかります。
しかし、元禄14年(1700)の大火により、本丸・二之丸・三之丸が焼失してしまいました。
桑名藩は幕府に一万両を借用して城を修築しているものの、天守閣は復興されませんでした。
これは幕府が諸大名に城の修理・改築・再建などを厳しく制限したことに関係があると考えられます。
ただ、平和な時代が続く内に、戦における城主の指揮所の役目を持った天守は無用となり、江戸城でも明暦の大火(1657)以後、天守が再建されることが無かったので桑名藩もそれにならったのかもしれません。
現在、本丸は広場となっており、天守閣跡には「戊辰殉難招魂碑」が建っています。

◆二之丸
城の本丸の外側を囲む城郭。(『大辞泉 下巻』より)

二之丸

二之丸

絵図で見ると、本丸と堀を挟んだ南側に存在します。
二之丸の三分の一を“枡形” (拡大画像下部)が占めています。
“枡形”とは、城門の内側にL字型の城壁を設ける事で、内側に攻め入ってきた敵の勢いを落とすことができます。
二之丸の枡形は二重構造で、さらに、本丸南大手にも枡形があるため、枡形が連結した、あまり類を見ない構造となっています。

二之丸から本丸へは“廊下橋”を使って渡ります。
“廊下橋”とは、廊下のように架けた屋根のある橋です。(拡大画像左下の青い屋根の橋)
普段は雨露に濡れずに渡ることができるものですが、戦の時には、この橋を落とすことで、敵が本丸へ侵入するのを防ぐ役目も持っています。

『桑名志 二』によれば、「松源院殿(松平定勝の妻)御住居アリ 二丸様ト奉称ル」とあり、二之丸に御殿が存在したことがわかります。
忠勝は、本丸は将軍のための御殿であり、自分は二之丸に住居し、本丸を守ると考えていたようです。
現在、二之丸は本丸と同様に広場となっています。

◆三之丸
城の二之丸を囲む外郭の部分。(『大辞泉 上巻』より)

三之丸

三之丸

絵図で見ると、本丸と堀を挟んだ北側に存在します。
本丸堀(十三間・約24メートル)は三之丸の南と北にまで回されています。
三之丸には”唐破風門(からはふもん)”という、屋根の左右が跳ね上がった曲線状の門をくぐって入ったようです。
通常の門には、このような豪華な装飾はなされていなかったので、三之丸には身分の高い人が通された御殿があったと思われます。
明治維新後、三之丸の一部の建物が朝日町小向の浄泉坊に移築され、書院として残されています。
現在、三之丸は吉之丸コミュニティパークの場所にあたります。

今回は、“正保城絵図”を基に本丸・二之丸・三之丸をご紹介しました。
城絵図が作られた時代によって、新しい建物が出来ていたり、昔あった物がなかったり・・・
と、見る絵図毎に新たな発見があります。
また、100年以上前に作られたものとは思えないほど、色鮮やかな絵図もあります。

桑名市立中央図書館の所蔵資料では“正保城絵図”をご覧いただけますが、4月10日(日)まで桑名市博物館では期間限定の特別企画展「徳川四天王の城 桑名城絵図展 」が開催中です!
先日、私< かぶら >も観に行きましたが、絵図の大きさと鮮やかな彩色にただただ驚かされました!
滅多にない機会ですので、お散歩がてら博物館を訪れてはいかがでしょうか?

▼参考HP(詳しくはこちら)
桑名市観光ガイド
桑名市博物館

< かぶら >

“絵図で見る桑名城” への2件のフィードバック

  1. 中村 正信 より:

    お世話になります。一点質問させて頂きます。城中より船で川に出れるとありますが、絵図を見ても川とは繋がってないように見えますが、具体的にどこが繋がってないるか教えて下さい。

    • KCLスタッフ より:

      ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
      桑名城には、かつて「舟入門」が存在しました。
      ブログ本文画像1枚目の画像をご覧いただきますと、城の北側(画像の左側)、揖斐川に突き出すように面した場所の一部分が少し中に凹むように描かれています。この場所が「舟(舩)入」として各絵図に記されています。
      この舟入に設けられた門は『桑名城』(桑名市博物館/編)によりますと、貴人や藩主だけが船に乗るために使用し、特定の人物しか潜らなかったそうです。

      年代は不詳ですが、文政6年(1823)以降に描かれたとされる城絵図「桑名城圖」(鎮國守國神社蔵/『徳川四天王の城』p58掲載)に、水門が描かれています。
      場所は箱堀と呼ばれる堀(大手橋がかかる堀)の南側に描かれています。
      しかし、同じく水門が描かれた「元禄年中桑名藩之圖」(鎮國守國神社蔵/『徳川四天王の城』p40掲載)は、「桑名城圖」より少し南、堀を挟んで反対側の石垣に水門が描かれており、正確な場所は不明です。

      また、水門は天守近くにも描かれています。
      ブログ本文画像3枚目「本丸」をご覧ください。天守の東側(画像上側)が茶色に塗られた部分があります。こちらにも水門があったと各絵図に記されています。
      前述の『桑名城』(桑名市博物館/編)によりますと、天守近くに水門を設け、緊急の場合は水路から逃げる経路として用意されたようです。
      桑名城が描かれた絵図は、当館所蔵資料『徳川四天王の城』(桑名市博物館/編)にてご覧いただけます。

      また、国立公文書館デジタルアーカイブにて「勢州桑名城中之絵図」が公開されています。
      こちらの絵図北側(画面下方向)、揖斐川に突き出す形である門の水面に「船入」と記されているのが確認出来ます。よろしければ、ご参考までにご覧ください。
      ▼国立公文書館デジタルアーカイブ
      https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000443

      わかりづらい説明で申し訳ありません。
      資料の詳細を下記にご紹介いたします。図書館へご来館の際、ぜひお手にとってご覧ください。
      これからも、桑名市立中央図書館をよろしくお願いいたします。

      ◆参考文献
      『徳川四天王の城』(桑名市博物館/編 桑名市博物館 2016年刊 AL221ク)
      『桑名城』([桑名市博物館/編] 桑名市博物館 2021年刊 L069ク)
      『桑名市博物館紀要 第10号』(桑名市博物館/編 桑名市博物館 2014年刊 AL069ク)

      <かぶら>

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