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桑名駅が生まれ変わりました!
2020年10月24日(土)|投稿者:kclスタッフ
こんにちは、「志るべ」です。
朝夕、めっきりすずしくなりましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
今年の夏は、熱中症対策とコロナ対策、本当にたいへんでした。
と、息つく暇もなく、次はインフルエンザ対策とコロナ対策、油断はできません。
そんな緊張のつづく日々ではありますが、桑名にニュースが・・・
桑名駅が新しくなりました!
2017年にスタートした「桑名駅自由通路」の工事が終了し、踏切まで迂回しなくても東西を自由に通行できるようになりました。
以前のブログでご紹介した場所がこの通り。
こちらは、新旧の桑名駅入口です。
電車を降りて、いつものホームを上がると、改札の向こうには見たことのない景色が広がっています。
オシャレな長い通路、なんだか知らないところに来たみたい。
旅先の駅に降り立ったような新鮮な気持ちになりました。
列車に揺られて、遠くへ行く旅はもちろんすてきですが、いつもの町も少し角度を変えれば、違う景色が見えてくるようです。
この時期だからこそ、住み慣れた桑名の町を旅の気分で歩いてみませんか?
今回、町歩きのおともにご紹介したいのが、桑名のガイドブック『久波奈名所図会』です。
なにやら古めかしいタイトルですが、それもそのはず、書かれたのは江戸時代。序文の日付は享和2年(1802)7月、奥付には文化元年(1804)6月とあります。
ガイドブックは最新版を見るのが基本ですが、ここまで古いとまた別の景色が見えてくるのではないでしょうか。
享和2年から文化元年といえば、初めて実測による日本地図を完成させた、あの伊能忠敬(いのう ただたか)が測量のために日本中を歩いていたころです。伊能忠敬の緻密さと粘り強さ、そしてその健脚ぶりには圧倒されますが、『久波奈名所図会』の作者にも驚かされます。
書いたのは、長円寺(伝馬町)の住職、魯縞庵義道(ろこうあん ぎどう)
この名前、どこかで聞いたことあるという方、おられるのではないでしょうか。桑名の方ならご存じ、あの連鶴「桑名の千羽鶴」の折り方を考案した人物です。
「桑名の千羽鶴」は一枚の紙から複数羽(97羽のものまであります)の連続した鶴を折る独特の連鶴で、桑名市の無形文化財(芸能)に指定されています。
もともと地理や歴史に興味があった義道は、桑名の地理、歴史を研究して地誌『桑府名勝志』を書きあげました。
ところが『桑府名勝志』は少しむずかしくて読みづらいため、誰もが読めるように、挿絵を入れてやさしくまとめ直しました。こうして『久波奈名所図会』が生まれました。
『久波奈名所図会』(長円寺所蔵)も桑名市の有形文化財(典籍)に指定されています。
当時、名所旧跡を挿絵入で紹介した「名所図会」がはやっていました。京の都を描いた『都名所図会』や桑名の時雨蛤も登場する『東海道名所図会』を参考に、『久波奈名所図会』も編集されました。
「名所図会」の魅力はなんといっても挿絵。挿絵の善し悪しで売れ行きが左右されると言われるほどでした。義道はその挿絵を、鍋屋町の工藤麟溪(くどう りんけい)に依頼しました。
麟溪は俳人で、義道も俳句を嗜んでいたことからつながりがあったのではないかと考えられています。
出版をめざして編纂された『久波奈名所図会』ですが、刊行されることはありませんでした。どういう事情があったのでしょうか?
本として出版されなかったのは少し残念ですが、義道が『久波奈名所図会』を書き残してくれたおかげで、わたしたちは今、当時の桑名を知ることができるのですね。
連鶴の折り方を編み出し、桑名の歴史や地理を研究し、『久波奈名所図会』をはじめ数々の著作を残した義道は、まさに「スーパー」住職です。
では少し、『久波奈名所図会』を開いてみましょう。
こちらは、当時の豪商山田彦左衛門の庭園です。
今は、「諸戸氏庭園」となり、紅葉の季節には一般公開されています。
国の重要無形文化財にも指定されている「伊勢大神楽」の様子が「大々神楽獅子舞図」に描かれています。右ページでは「獅子舞」が、左ページでは「放下芸」(曲芸)が行われています。
今も、大福田寺の桑名聖天火渡り祭で「伊勢大神楽」が行われています。
その大福田寺は、
今の大福田寺山門は、こちら。
桑名の町は変わったのでしょうか?それとも、変わっていない?
『久波奈名所図会』を手に、当時の町やそこに暮らす人々に思いを馳せながら、町歩きに出かけてみませんか?
<参考資料>
※桑名市立中央図書館では『久波奈名所図会』の写本と翻刻本(活字本)を所蔵しています。
(写本)
『久波奈名所図会』〔義道/著〕,〔工藤 麟渓/書・画〕享和2年[1802]序 3冊 L292ギ
『久波奈名所図会 上』〔義道/著〕,〔工藤 麟渓/装画〕享和2年7月序 1冊 L292ギ
(翻刻本)
『久波奈名所図会 影印校注 上巻』 義道/著,工藤 麟渓/装画 久波奈古典籍刊行会 1977 AL292ギ
『久波奈名所図会 影印校注 中巻』 義道/著,工藤 麟渓/装画 久波奈古典籍刊行会 1977 AL292ギ
『久波奈名所図会 影印校注 下巻』 義道/著,工藤 麟渓/装画 久波奈古典籍刊行会 1977 AL292ギ
『桑府名勝志 1~6』 義道/編 北勢史談会 1951 L292ソ
※デジタル資料を公開(PDFファイルで開きます)
『桑名市博物館紀要 第14号』 桑名市博物館 2020 AL069ク
『連鶴史料集 魯縞庵義道と桑名の千羽鶴』 桑名市博物館/編纂 岩崎書店 2016 AL754レ
<志るべ>
「昭和」から「平成」、そして「令和」へ
2019年6月8日(土)|投稿者:kclスタッフ
こんにちは、志るべです。
みなさまいかがお過ごしでしょうか?
新元号「令和」がスタートしました。
平成への名残惜しさを感じつつも、新しい時代に対する期待が高まります。
今、桑名駅周辺も大きく変わろうとしています。
「桑名駅自由通路整備事業」の工事、真っただ中です。
この通路が完成すると、踏切まで迂回せずに駅の東西を通行できるようになります。
(くわしくは、桑名市ホームページの桑名駅周辺地区整備構想、桑名駅自由通路整備事業をご覧ください)
現在の桑名駅周辺の姿は、昭和44年の「桑名駅前市街地再開発事業」によって整備、開発されました。
建物が取り壊されてなくなってしまうと、「あれ?ここ何があったっけ?」と思うことがあります。
いつも見ている場所なのに・・・と記憶のあやふやさに驚きます。
桑名市立中央図書館では、「薄れ行く昭和の記憶の風化を防ぐ」ために資料を収集し、年に一度「昭和の記憶収集資料展」を開催していますが、新しい時代を迎え、昭和がまたひとつ遠くなりました。
昭和の初め、桑名駅からはどんな景色が見えたのでしょう?
昭和10年の桑名駅を詠んだ詩があります。
桑名の夜は暗かった
蛙がコロコロないてゐた
夜更け(よふけ)の駅には駅長が
綺麗な砂利を敷き詰めた
プラットホームに只(ただ)独り
ランプを持つて立つてゐた
桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ泣いてゐた
焼蛤貝(やきはまぐり)の桑名とは
此処のことかと思つたから
駅長さんに訊(たず)ねたら
さうだと云つて笑つてた桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた
大雨(おほあめ)の、霽(あが)つたばかりのその夜(よる)は
風もなければ暗かった
(一九三五・八・十二)
「此の夜、上京の途なりしが、京都大阪間の不通のため、臨時関西線を運転す」
(『中原中也詩集』 中原 中也/[著],大岡 昇平/編 岩波書店 1991 より)
これは、詩人中原中也(明治40年(1907)~昭和12年(1937))が詠んだ「桑名の駅」という詩です。
昭和10年(1935)8月、郷里の湯田(山口県)に帰省していた中也は妻とともに、前年に生まれた長男文也を連れて上京します。この上京時、関西地区の豪雨により東海道線が不通になるというアクシデントに見舞われます。そのため大阪から関西線を経由し名古屋へ向かうことになるのですが、途中、桑名で長時間の停車を余儀なくされました。
その際に生まれたのが上記の「桑名の駅」という詩です。
中也の没後、雑誌「文学界」(昭和12年12月追悼号)に遺稿として掲載されました。
中原中也といえば、帽子をかぶった、幼さの残る顔立ちの写真を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
「サーカス」という詩の、ブランコの揺れを表現した「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という一節も印象的です。
「桑名の駅」が詠まれた翌年、長男文也は幼くして亡くなります。中也は文也の死をとても悲しみ、中也自身もその翌年、30歳という若さで亡くなりました。
中也が残した日記「文也の一生」には、昭和10年(1935)8月、上京の途中、桑名に停車したことが記されています。
関西水害にて大阪にて関西線を経由。桑名駅にて長時間停車。
(『汚れっちまった悲しみに―私の人生観』 中原 中也/著 吉田 凞生/編・解説 大和出版 1992 より)
この詩をぜひ桑名駅に残したいという方々の想いが形になり、桑名駅開業百周年に合わせて、平成6年(1994)7月5日、詩碑が建立されました。
今やプラットホームはコンクリートで固められ、中也の見た景色とは変わってしまいましたが、詩碑の足元には「綺麗な砂利が敷き詰め」られています。
今回、中原中也について書かれたものを読んでいて気づいたことがあります。
中也が亡くなった後、「中原中也賞」が設けられ、新進詩人の優れた創作詩篇に与えられているのですが、第一回(昭和14年)は立原道造、第ニ回(昭和16年)は杉山平一、高森文夫、そして第三回(昭和17年)は平岡潤に授与されました。(この賞は第三回で中止されており、現在の「中原中也賞」とは異なります)
「平岡潤」(明治39年(1906)~昭和50年(1975))といえば、桑名について調べる際、必ず目にする名前です。『桑名市史 本編』『桑名市史 補編』『桑名の伝説・昔話』を編纂された方です。
平岡氏が『茉莉花 詩集』(平岡 潤/著 平岡 潤 1942)を出されていることは知っていました。
けれど、あくまでも郷土史に造詣の深い方という印象で、詩集『茉莉花』で高い評価を受け、「中原中也賞」を受賞されたことは(図書館で働きながら恥ずかしいことですが)知りませんでした。
さらに平岡氏は、詩人であるだけでなく美術にも秀で、自由美術家協会賞(第一回)を受賞しています。画家を志されるほどでした。
仮定の話をすることは失礼かもしれませんが、もし戦争がなければどういう人生を送り、どういう作品を生み出されていたのだろうと思わざるを得ません。
復員後、郷里の桑名に戻ってからは郷土資料の収集、編集、文化財保護に尽力されました。中学校時代の恩師である近藤杢氏を手伝う形で「桑名市史」の編纂を始められます。
桑名市立図書館に勤務されていた時期もあり、私たちの大先輩でもあります。
戦後、荒廃していた秋山文庫(桑名藩儒であった、秋山白賁堂(はくひどう)、その長男寒緑(かんりょく)、次男罷斎(ひさい)の三人の蔵書)の救済に立ち上がり、伊勢湾台風の際には浸水した史料の修復に取り組まれました。
くっついた紙を1枚ずつ剃刀の刃で丹念にはぎとっていく・・・という気の遠くなるような作業をつづけられました。
桑名市立中央図書館の貴重なコレクションである秋山文庫を初めとする郷土資料は、平岡氏や先人の方々によって守られてきたものであり、それらの資料を私たちは託されているのだと思うと、身の引き締まる思いがします。
その後、昭和45年(1970)、桑名市立文化美術館(現在の桑名市博物館)が創設されると初代館長に就任されますが、残念ながら昭和50年(1975)、郷土史の講話のさなかに心筋梗塞の発作で倒れ、亡くなられました。
平岡氏にお会いすることはもうかないません。
けれど残された資料を守り伝えていくことで、その志を受け継いでいくことはできます。
「令和」もいつか歴史の中の一時代となる時がやってきます。
託された資料を守ると同時に、今を記録し伝えていくことも図書館の役割といえます。
改めて図書館の役割と責任を感じる機会となりました。
これから始まる、そしていつか歴史に刻まれる「令和」が明るい時代でありますように。
<参考・引用資料>
『中原中也詩集』 中原 中也/[著],大岡 昇平/編 岩波書店 1991 911.5ナ(書庫)
『新潮日本文学アルバム 30 中原中也』 新潮社 1985 910.2シ(一般)
『ふるさと文学館 第28巻 三重』 ぎょうせい 1995 L980フ(歴史の蔵)
『鉄道の文学紀行 茂吉の夜汽車、中也の停車場』 佐藤 喜一/著 中央公論新社 2006 910.2サ(一般)
『文學界 [1937]12月号』 文藝春秋社 1937.12 L915ブ(歴史の蔵)
『茉莉花 詩集』 平岡 潤/著 平岡 潤 1942 L915ヒ桑名作家(歴史の蔵)
『詩集「茉莉花」と平岡潤 戦争に埋もれた「四季」派詩人』 津坂 治男/著 1992 L904ツ(歴史の蔵)
『桑名の文化 平岡潤遺稿 1』 平岡 潤/著 平岡潤遺塙刊行会 1977 L201ヒ通史(歴史の蔵)
『桑名の文化 平岡潤遺稿 2』平岡 潤/著 平岡潤遺稿刊行会 1977 L201ヒ通史(歴史の蔵)
『桑名市史 本編』 近藤 杢/編,平岡 潤/校補 桑名市教育委員会 1987 AL221ク(桑名三重)
『桑名市史 補編』 近藤 杢/編,平岡 潤/校補 桑名市教育委員会 1987 AL221ク(桑名三重)
『桑名の伝説・昔話』 近藤 杢/編,平岡 潤/編 桑名市教育委員会 1965 AL388ク(桑名三重)
『汚れっちまった悲しみに―私の人生観』 中原中也/著 吉田凞生/編・解説 大和出版 1992 (※ こちらの資料は当館に所蔵しておりません)
<志るべ>
陸地測量師「館潔彦」をご存じですか?
2018年8月11日(土)|投稿者:kclスタッフ
※2022年6月10日
タイトル及び本文に誤りがありました。訂正してお詫び申し上げます。
×測量師 → 〇陸地測量師
こんにちは、「志るべ」です。
みなさまいかがお過ごしでしょうか?
最高気温は更新をつづけ、もはやがまんくらべのような毎日です。
とはいえ、やはり夏!!
海や山へ、この季節ならではのレクリエーションも楽しみたいものですね。
山といえば、8月11日は国民の祝日「山の日」です。
平成28年(2016)より施行された「山の日」は、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としています。
この夏、「日本アルプス」にチャレンジされる方もおられるのではないでしょうか。
汗を流してたどりついた山頂から眺める景色は格別です。
登山は、現代でも楽しみと同時に危険を伴うスポーツですが、その昔、前人未到の「日本アルプス」に挑戦するというのはどのような道のりだったのでしょう。
今回ご紹介するのは、そんな登山に取り組んだ人々を描いた一冊です。
『はじめの日本アルプス 嘉門次とウェストンと館潔彦と』(山村 基毅/著 バジリコ 2008)
嘉門次とは、上條嘉門次(かみじょう かもんじ,1847-1917 ※1918とする資料もあり)のことで、 弘化4年(1847)、上高地に生まれました。
山岳ガイドの草分けといえる人物で、終生、上高地を出ることはありませんでした。
ウェストンと館潔彦(たてきよひこ)、彼らふたりの水先案内人を務め、日本アルプスへと導きました。
当時、案内人に求められたのは、直接的には道案内や荷物の運搬でしたが、彼らは「正確な地理情報、卓抜した投降技術と生活技術、的確な気象判断と臨機応変の対応など」(『目で見る日本登山史』p119)を具えていたといわれ、登山家の篤い信頼を得ていました。
今も彼の曾孫によって、上高地に建つ嘉門次小屋は営まれています。
ウェストンとは、ウォルター・ウェストン(1861-1940)のことで、 日本における近代登山(スポーツや楽しみとしての登山)のパイオニアと言われる人物です。
明治21年(1888)、イギリスから宣教師として来日し、キリスト教を広める一方で趣味の登山を通して日本に近代登山を根づかせました。
上高地では、ウェストンを顕彰する碑が立てられ、例年6月に「ウェストン祭」が開かれています。
そして、館潔彦(たて きよひこ,1849-1927)ですが、 今回、特にご紹介したいのがこの館潔彦という人物です。
ご存じの方もおられるかもしれませんが、館潔彦は桑名にゆかりのある人です。
嘉永2年(1849)、桑名藩士の子として生まれました。
明治に入って、工部省の測量師として任官し、地図を作成するために各地の「三角測量」に従事しました。
退官後は桑名で暮しましたが、昭和2年(1929)、78歳で亡くなり、照源寺に眠っています。
山に登ったことのある方であれば、山頂や見晴らしのよいピーク(山の高くなっているところ)に「三角点」と書かれた標識があるのにお気づきのことと思います。三角点を目にすると、「登った!」という達成感もひとしおです。
登山愛好家の間では、この三角点に愛着を感じる人も多いようです。
図書館には、全国の三角点を紹介したガイドブック、『一等三角点全国ガイド[正]』(一等三角點研究會/編著 ナカニシヤ出版 2011)もあります。
とはいえ、「三角点」は登山の達成感を得るために設けられているわけではありません。
地図をつくるために行われる「三角測量」に必要な基準点なのです。
「三角測量」について、くわしくは国土地理院ホームページで紹介しています。
『絵でわかる地図と測量』(中川 雅史/著 講談社 2015)、『地図を楽しもう』(山岡 光治/著 岩波書店 2008)もご覧ください。
日本の登山の歴史をたどると、趣味やスポーツとしての登山だけでなく、地図を作るための「測量登山」という一面がみえてきます。
全国を歩いて測量し、日本地図を完成した伊能忠敬(1745-1818)には圧倒されますが、伊能忠敬の地図「大日本沿海輿地全図」(『伊能図大全』所収)の空白部分を埋めるために、明治に入ると陸地の測量、測量登山が行われます。
そんな中、館潔彦は中部山岳地域の測量における先駆的な役割をはたしました。
地図作成のために道なき道を歩き、御岳、白馬岳、前穂高岳、乗鞍岳、立山、と誰もが知っている「日本アルプス」の山々の三角点を選点(位置を決める作業)しています。
前穂高岳の選点の際には、館潔彦と思われる人物が滑落し、奇跡的に命びろいしたという逸話も語られています。
今や測量にも人工衛星が用いられる時代となりましたが、文字通り命がけで測量登山に挑んだ先人たちによって、地図は作られてきたのですね。
「山に親しみ、恩恵に感謝する」ためにも、「日本アルプス」へ行きたいのはやまやま(!)ですが、なかなかそうもいきません。そんな時にはぜひ、図書館でその雄大な姿をご覧いただきたいと思います。
紀行文でたどっていただくこともできます。
一般特集コーナーでは、海や山の本を取り揃えご用意しています。
そして、この夏実際に、「日本アルプス」にチャレンジされる方は、どうぞお気をつけてお楽しみいただきますように。
山の思い出とともに図書館へお越しいただくのをお待ちしております。
<参考図書>
『はじめの日本アルプス 嘉門次とウェストンと館潔彦と』 山村 基毅/著 バジリコ 2008 291.5ヤ(一般)
『目で見る日本登山史』 山と渓谷社/編 山と溪谷社 2005 786.1メ(一般)
『一等三角点全国ガイド[正]』 一等三角點研究會/編著 ナカニシヤ出版 2011 291イ(一般)
『一等三角点全国ガイド 続』 一等三角點研究會/編著 ナカニシヤ出版 2013 291イ2(一般)
『日本登山史』 山崎 安治/[著] 白水社 1977 786(書庫)
『絵でわかる地図と測量』 中川 雅史/著 講談社 2015 448.9ナ(一般)
『地図を楽しもう』 山岡 光治/著 岩波書店 2008 Y448ヤ(ティーン)
『伊能図大全 第1~7巻』 [伊能 忠敬/著],渡辺 一郎/監修 河出書房新社 2013 291イ1~7(一般)
『白籏史朗の日本アルプス 写真紀行』 白籏 史朗/著 新日本出版社 1990 D748シ(一般)
『日本の名山・花彩彩 白籏史朗写真集』 白籏 史朗/著 新日本出版社 1996 748シ(一般)
『日本アルプス百名山紀行』 深田 久弥/著 河出書房新社 2000 291.5フ(一般)
『郷土史を訪ねて』 西羽 晃/著 朝日新聞社名古屋本社 2001 291.5ニ(一般)
『三角点・水準点をつくった人 近代の測量から現代まで』 西田 文雄/著 文化評論 2014 L512ニ(歴史の蔵)
『私の履歴書 経済人32』 日本経済新聞社/編 日本経済新聞社 2004 Z281ワ32(全集)
<志るべ>
「北村文庫」と北村けんじ氏のこと
2017年12月26日(火)|投稿者:kclスタッフ
こんにちは、「志るべ」です。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
気がつけば今年も残すところ、後わずかとなりました。
寒いのは苦手ですが、空気がだんだんと澄んでいく感じは気持ちのよいものですね。
四季のある国でよかったな、と思うことの多いこのごろです。
さて今回は、北村文庫についてご紹介いたします。(こちらの記事もご覧下さい)
今年(2017年)は児童文学作家・北村けんじ氏(1929~2007)が亡くなって10年となります。亡くなる直前、北村氏から児童文学に関する資料を寄贈していただきました。
桑名市立中央図書館では、北村氏ご自身の著作をはじめ児童文学関係の雑誌、自筆原稿、書簡などの資料を「北村文庫」として保管しています。
北村文庫は、北村氏を研究する上で、また当時の児童文学を取り巻く環境を知る上でも貴重な資料群であり、「桑名市立中央図書館の地域文庫コレクション」を構成する大切な文庫ということができます。
北村けんじ氏は、本名を北村憲司といい、昭和4年(1929)、福岡県山門郡瀬高町(やまとぐんせたかまち・現在のみやま市瀬高町)に生まれました。3才で桑名郡多度村(現在の桑名市多度町)へ転居し、その後を多度で過ごしています。
終戦後の昭和22年(1947)、18才で恩師の勧めにより母校である多度小学校(現在の多度中小学校)の助教諭になり、平成2年(1990)、母校の校長を最後に教員生活を終えました。
もともと文芸に興味があり、学芸会の脚本などをすべて自分で書くことからはじめ、児童文学に本格的に取り組むようになったそうです。
当時は児童文学への認識が低く、なかなか出版できる機会に恵まれず、初めて本を出すことができたのは38才の時でした。
教師の勤めから帰ると自室にこもり執筆するという生活を、40年余り続けられたといいます。
教師を退職後は三重大学や四日市大学で講師を勤め、三重児童文学の会、日本児童文芸家協会、日本児童文学者協会に所属し、同人誌の顧問として後進の育成にもあたられました。
代表作『まぼろしの巨鯨(おおくじら)シマ』(北村けんじ/作,瀬川康男/え 理論社 1978)での第19回サンケイ児童出版文化賞受賞をはじめ、数々の賞を受賞されています。
児童文学界に多大な貢献をされた北村氏ですが、少しでも身近に感じたく、失礼ながらここからは、「北村さん」と呼ばせていただきたいと思います。
北村さんは、児童文学への想いを次のように語っておられます。
児童文学は、人間としてどう生きたらいいかという理想を求めていくものです。子どものものとはいえ、人間としての根元的なものに取り組んでいる、そんなことを日々考えています。
(『瞬間(とき)の浪漫 平成12年度多度町勢要覧』 平成14年11月修正版 多度町 2002 より)
北村さんの作品には時代や景色、そしてそこに暮らす人々や子どもたちの姿が丁寧に描かれています。ご自身の教師生活をもとに、学校生活を描いた作品も多くあります。
北村さんの作品は、子どもたちとかかわりを深める中から生まれたものといえます。
また、多度を舞台にした作品も多く見られ、「あっ、これはあの場所のことかな?」と思う記述にも出会います。
最後の作品となった『クジャク砦からの歌声』(北村けんじ/作,石倉欣ニ/絵 小峰書店 2003)は、昭和22年4月のある朝、一人の17才の青年が代用教員として、小学校の正門につづく坂道を歩いていく場面から始まります。その姿は、18才で助教諭として母校の門をくぐった北村さんの姿と重なります。
北村さんが赴任した多度小学校は、作品の中では太生(たお)小学校として描かれています。
この作品は、書きたい、書きたいと思いながら、書いては消し、書き上げるのに十数年を費やした、と「あとがき」に書いておられます。
どうしてそれほど時間を費やしたのでしょう?
少し長いですが、「あとがき」の言葉を引用させていただきます。
教師の眼で書けば、教師の実践、実録物語に陥り、子どもの眼で見れば、どうも単調な学校物語になってしまうような気がします。
私が密かに思っていたのは、教師と子どもの対等な目線で火花を散らし、たとえもがき合うことはあっても、快活、ユーモラスな「明日」が見えてくるような、そんな物語を描きたかったのです。今やっと、そんな境地に立ってペンが動き始めました。
私をつき動かしたのは、この物語に登場する子どもたちも、すでにおとなになり、私と同じ原風景を持っていることに気づいたからです。そして、その共通意識が強くなればなるほど、一見繁栄しているかにみえて、疲弊している今の時代を、逆噴射したい。そんな気持ちにつながっていきました。
(『クジャク砦からの歌声』北村 けんじ/作,石倉 欣二/絵 小峰書店 2003「あとがき」より)
あとがきの言葉からは、北村さんの想いが伝わってきます。
その想いが作品という形になるために、十数年という時間が必要だったことが わかります。
この物語が最後の作品であることも印象的です。
多度の町に思い出のある方、北村さんと同じ時代を生きた方、同じ原風景を持つ方、そして当時をまったく知らない世代の子どもたちにも、作品を読んで北村さんの想いを感じていただければと思います。
<参考資料>
『桑名市立中央図書館 開館10周年記念 地域文庫コレクション 秋山文庫・伊藤文庫・堀田文庫・北村文庫・貝塚文庫』 桑名市教育委員会務局生涯学習課中央図書館 2015 AL026ク
※こちらの冊子はご希望の方に無料で配布しています。
『瞬間(とき)の浪漫 平成12年多度町勢要覧』 平成14年11月修正版 多度町(三重県) 2002 AG318.2タ
『まぼろしの巨鯨(おおくじら)シマ』北村 けんじ/作,瀬川 康男/え 理論社 1978 YL913キ
『クジャク砦からの歌声』北村 けんじ/作,石倉 欣二/絵 小峰書店 2003 YL913キ
「志るべ」
『慶長自記』から見る桑名
2017年7月11日(火)|投稿者:kclスタッフ
「ブックとラック」をご覧のみなさま、こんにちは。
次第に強くなる日差しに、夏の訪れを感じている< かぶら >です。
以前、桑名城についてご紹介した記事「絵図で見る桑名城」の中で、 『慶長自記』という資料について少し触れました。
今回は、『慶長自記』についてご紹介します。
『慶長自記』とは、慶長4年(1599)秋から慶長20年(1615)正月までの桑名の出来事を記した資料です。
著者は、船馬町で酒屋を営んでいた太田吉清です。
冒頭には、
慶長四年己亥秋米判金一枚四十九石、其後四十八石より七、六、五、四石なり。
と、慶長4年秋の物価が細かに記されています。
『慶長自記』は、当時の物価記録が多く記されており、吉清が商売を生業としていることが伺えます。
「同(慶長)三戊年に治田(員弁郡北勢町)に銀山出」とあり、この付近で銀が採れたことがわかるなど、桑名の歴史を辿る上で貴重な資料です。
また、慶長6年(1601)4月24日。
この日、桑名藩初代藩主・本多忠勝が初めて桑名城へ入ったことも記されています。
忠勝は、徳川家康に仕えた小牧長久手の戦いや、小田原攻めなど数々の合戦でその豪勇を賞賛されました。
そして慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでまた大功を立て、翌6年に伊勢桑名藩の初代藩主となったのです。
『慶長自記』には、桑名の藩主となってから忠勝が行った「慶長の町割」といわれる町の整備についても記されています。
忠勝の行った町割が今も市内の随所に残っていることは、あまり知られていません。
「慶長の町割」については、
桑名町割の事、五月の末に被仰付、六月十八日に普請始り、エミトホリコノ舟入ほられ申候。
(中略)町中家蔵こぼち、春日の内に小屋をさし、取はらい、
と、 忠勝が行った町割は、町中の家や蔵を壊し、作り直すなど徹底されたものでした。
家を追われた人々は春日神社の境内に仮小屋を建てたり、川に浮かべた筏の上で生活を行うほどだったようです。
忠勝が慶長17年(1612)11月に春日神社に鳥居を寄進したことにも触れています。
現在の春日神社の鳥居は青銅の鳥居として有名ですが、忠勝が寄進した当時のものは木材で出来ていました。
鳥居建設にかかった材木等の費用や、大工の名前や行事などが、『慶長自記』に記されています。
『慶長自記』は、『桑名市史 補編』、『日本都市生活史料集成 7 港町篇』で活字化された資料として読むことが出来ます。
一人の町人として桑名を見つめた吉清の視点で、桑名の歴史を振り返ってみるのもまた面白いかもしれません。
ぜひ一度、手に取ってご覧ください。
▼関連資料
『桑名市史 本編』 近藤 杢/編,平岡 潤/校補 桑名市教育委員会 1987
『桑名市史 補編』 近藤 杢/編,平岡 潤/校補 桑名市教育委員会 1960
『日本都市生活史料集成 7 港町篇』 原田 伴彦/[ほか]編集 学研 1982
『寛政重修諸家譜 第7 新訂』 続群書類従完成会 1980
『国史大辞典 1 あ~い』 国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1979
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