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KCLスタッフブログ ~ブックとラック~

2017年12月26日(火)PM2:24|投稿者:KCLスタッフ

「北村文庫」と北村けんじ氏のこと

こんにちは、「志るべ」です。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
気がつけば今年も残すところ、後わずかとなりました。
寒いのは苦手ですが、空気がだんだんと澄んでいく感じは気持ちのよいものですね。
四季のある国でよかったな、と思うことの多いこのごろです。

 

さて今回は、北村文庫についてご紹介いたします。(こちらの記事もご覧下さい)
今年(2017年)は児童文学作家・北村けんじ氏(1929~2007)が亡くなって10年となります。亡くなる直前、北村氏から児童文学に関する資料を寄贈していただきました。
桑名市立中央図書館では、北村氏ご自身の著作をはじめ児童文学関係の雑誌、自筆原稿、書簡などの資料を「北村文庫」として保管しています。
北村文庫は、北村氏を研究する上で、また当時の児童文学を取り巻く環境を知る上でも貴重な資料群であり、「桑名市立中央図書館の地域文庫コレクション」を構成する大切な文庫ということができます。

「歴史の蔵」に「北村文庫」のコーナーがあります。

「歴史の蔵」に「北村文庫」のコーナーがあります。

「北村文庫」の解説と同人誌リストを置いています。

「北村文庫」の解説と同人誌リストを置いています。

北村けんじ氏は、本名を北村憲司といい、昭和4年(1929)、福岡県山門郡瀬高町(やまとぐんせたかまち・現在のみやま市瀬高町)に生まれました。3才で桑名郡多度村(現在の桑名市多度町)へ転居し、その後を多度で過ごしています。
終戦後の昭和22年(1947)、18才で恩師の勧めにより母校である多度小学校(現在の多度中小学校)の助教諭になり、平成2年(1990)、母校の校長を最後に教員生活を終えました。

 

もともと文芸に興味があり、学芸会の脚本などをすべて自分で書くことからはじめ、児童文学に本格的に取り組むようになったそうです。
当時は児童文学への認識が低く、なかなか出版できる機会に恵まれず、初めて本を出すことができたのは38才の時でした。
教師の勤めから帰ると自室にこもり執筆するという生活を、40年余り続けられたといいます。

 

教師を退職後は三重大学や四日市大学で講師を勤め、三重児童文学の会、日本児童文芸家協会、日本児童文学者協会に所属し、同人誌の顧問として後進の育成にもあたられました。
代表作『まぼろしの巨鯨(おおくじら)シマ』(北村けんじ/作,瀬川康男/え 理論社 1978)での第19回サンケイ児童出版文化賞受賞をはじめ、数々の賞を受賞されています。

『まぼろしの巨鯨シマ』 北村けんじ/作,瀬川康男/え 理論社 1986

『まぼろしの巨鯨シマ』 北村けんじ/作,瀬川康男/え 理論社 1978

児童文学界に多大な貢献をされた北村氏ですが、少しでも身近に感じたく、失礼ながらここからは、「北村さん」と呼ばせていただきたいと思います。
北村さんは、児童文学への想いを次のように語っておられます。

 

児童文学は、人間としてどう生きたらいいかという理想を求めていくものです。子どものものとはいえ、人間としての根元的なものに取り組んでいる、そんなことを日々考えています
(『瞬間(とき)の浪漫 平成12年度多度町勢要覧』 平成14年11月修正版 多度町 2002 より)

 

北村さんの作品には時代や景色、そしてそこに暮らす人々や子どもたちの姿が丁寧に描かれています。ご自身の教師生活をもとに、学校生活を描いた作品も多くあります。
北村さんの作品は、子どもたちとかかわりを深める中から生まれたものといえます。
また、多度を舞台にした作品も多く見られ、「あっ、これはあの場所のことかな?」と思う記述にも出会います。

 

最後の作品となった『クジャク砦からの歌声』(北村けんじ/作,石倉欣ニ/絵 小峰書店 2003)は、昭和22年4月のある朝、一人の17才の青年が代用教員として、小学校の正門につづく坂道を歩いていく場面から始まります。その姿は、18才で助教諭として母校の門をくぐった北村さんの姿と重なります。

 

北村さんが赴任した多度小学校は、作品の中では太生(たお)小学校として描かれています。
この作品は、書きたい、書きたいと思いながら、書いては消し、書き上げるのに十数年を費やした、と「あとがき」に書いておられます。

『クジャク砦からの歌声』 北村けんじ/作 石倉欣ニ/絵 小峰書店 2003

『クジャク砦からの歌声』 北村けんじ/作,石倉欣ニ/絵 小峰書店 2003

どうしてそれほど時間を費やしたのでしょう?
少し長いですが、「あとがき」の言葉を引用させていただきます。

 

教師の眼で書けば、教師の実践、実録物語に陥り、子どもの眼で見れば、どうも単調な学校物語になってしまうような気がします。
私が密かに思っていたのは、教師と子どもの対等な目線で火花を散らし、たとえもがき合うことはあっても、快活、ユーモラスな「明日」が見えてくるような、そんな物語を描きたかったのです。今やっと、そんな境地に立ってペンが動き始めました。
私をつき動かしたのは、この物語に登場する子どもたちも、すでにおとなになり、私と同じ原風景を持っていることに気づいたからです。そして、その共通意識が強くなればなるほど、一見繁栄しているかにみえて、疲弊している今の時代を、逆噴射したい。そんな気持ちにつながっていきました。
(『クジャク砦からの歌声』北村 けんじ/作,石倉 欣二/絵 小峰書店 2003「あとがき」より)

 

あとがきの言葉からは、北村さんの想いが伝わってきます。
その想いが作品という形になるために、十数年という時間が必要だったことが わかります。
この物語が最後の作品であることも印象的です。

 

多度の町に思い出のある方、北村さんと同じ時代を生きた方、同じ原風景を持つ方、そして当時をまったく知らない世代の子どもたちにも、作品を読んで北村さんの想いを感じていただければと思います。

 

<参考資料>
桑名市立中央図書館 開館10周年記念 地域文庫コレクション 秋山文庫・伊藤文庫・堀田文庫・北村文庫・貝塚文庫』 桑名市教育委員会務局生涯学習課中央図書館 2015 AL026ク
※こちらの冊子はご希望の方に無料で配布しています。
瞬間(とき)の浪漫 平成12年多度町勢要覧』 平成14年11月修正版 多度町(三重県) 2002 AG318.2タ
まぼろしの巨鯨(おおくじら)シマ』北村 けんじ/作,瀬川 康男/え 理論社 1978 YL913キ
クジャク砦からの歌声』北村 けんじ/作,石倉 欣二/絵 小峰書店 2003 YL913キ

「志るべ」

2017年7月11日(火)PM2:33|投稿者:KCLスタッフ

『慶長自記』から見る桑名

「ブックとラック」をご覧のみなさま、こんにちは。
次第に強くなる日差しに、夏の訪れを感じている< かぶら >です。

以前、桑名城についてご紹介した記事「絵図で見る桑名城」の中で、 『慶長自記』という資料について少し触れました。
今回は、『慶長自記』についてご紹介します。

 

『慶長自記』とは、慶長4年(1599)秋から慶長20年(1615)正月までの桑名の出来事を記した資料です。

著者は、船馬町で酒屋を営んでいた太田吉清です。

冒頭には、
慶長四年己亥秋米判金一枚四十九石、其後四十八石より七、六、五、四石なり。
と、慶長4年秋の物価が細かに記されています。

『慶長自記』は、当時の物価記録が多く記されており、吉清が商売を生業としていることが伺えます。
「同(慶長)三戊年に治田(員弁郡北勢町)に銀山出」とあり、この付近で銀が採れたことがわかるなど、桑名の歴史を辿る上で貴重な資料です。

 

また、慶長6年(1601)4月24日。nigaoe_hondatadakatsu

この日、桑名藩初代藩主・本多忠勝が初めて桑名城へ入ったことも記されています。

 

忠勝は、徳川家康に仕えた小牧長久手の戦いや、小田原攻めなど数々の合戦でその豪勇を賞賛されました。
そして慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでまた大功を立て、翌6年に伊勢桑名藩の初代藩主となったのです。

『慶長自記』には、桑名の藩主となってから忠勝が行った「慶長の町割」といわれる町の整備についても記されています。

忠勝の行った町割が今も市内の随所に残っていることは、あまり知られていません。
「慶長の町割」については、

桑名町割の事、五月の末に被仰付、六月十八日に普請始り、エミトホリコノ舟入ほられ申候。
(中略)町中家蔵こぼち、春日の内に小屋をさし、取はらい、

と、 忠勝が行った町割は、町中の家や蔵を壊し、作り直すなど徹底されたものでした。
家を追われた人々は春日神社の境内に仮小屋を建てたり、川に浮かべた筏の上で生活を行うほどだったようです。

忠勝が慶長17年(1612)11月に春日神社に鳥居を寄進したことにも触れています。

現在の春日神社鳥居(スタッフ撮影)

現在の春日神社鳥居(スタッフ撮影)

現在の春日神社の鳥居は青銅の鳥居として有名ですが、忠勝が寄進した当時のものは木材で出来ていました。
鳥居建設にかかった材木等の費用や、大工の名前や行事などが、『慶長自記』に記されています。

 

『慶長自記』は、『桑名市史 補編』『日本都市生活史料集成 7 港町篇』で活字化された資料として読むことが出来ます。

一人の町人として桑名を見つめた吉清の視点で、桑名の歴史を振り返ってみるのもまた面白いかもしれません。
ぜひ一度、手に取ってご覧ください。 gosenzosama

 

 

 

▼関連資料
『桑名市史 本編』 近藤 杢/編,平岡 潤/校補 桑名市教育委員会 1987
『桑名市史 補編』 近藤 杢/編,平岡 潤/校補 桑名市教育委員会 1960
『日本都市生活史料集成 7 港町篇』 原田 伴彦/[ほか]編集 学研 1982
『寛政重修諸家譜 第7 新訂』 続群書類従完成会 1980
『国史大辞典 1 あ~い』 国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1979

 

< かぶら >

2017年5月9日(火)PM3:00|投稿者:KCLスタッフ

『ぼくがサムライになった日』

上げ馬ばかりは、かけや。
そのいっしゅんに、
馬と人が
ひとつのからだに
なるか、なれんか。
そして、土の壁と
火花散らす
たたかいや。
(『ぼくがサムライになった日』 北村けんじ/作 今井弓子/絵 金の星社 1983 「はじめに」より)

 

こんにちは、「志るべ」です。
新緑がまぶしい季節になりました。
五月の風の中、今年も多度の町では上げ馬神事が行なわれました。

 

『ぼくがサムライになった日』という作品は、
上げ馬神事を題材に書かれた作品で、作者は多度の児童文学作家、北村けんじ氏(1929~2007)です。
今回はこの作品をご紹介します。

 

ご存じのとおり、上げ馬神事は毎年5月4日、5日に多度大社で行われる例祭「多度祭」の神事です。
境内に造られた急な斜面を人馬一体となって駆け上がるという勇壮な神事で、うまく上がればその年は豊作とされています。最初に駆ける馬が上がれば早稲(わせ)の米が豊作、後の馬が上がれば晩稲(おくて)が豊作とも言われます。
昭和53年(1978)、三重県の民俗無形文化財に指定されました。

 

主人公「ぼく」は、多度の小山(おやま)に住む小学4年生の男の子「湯山マサキ」です。
マサキのおとうさんはシンガポールに出張中で、今はおかあさんと二人暮らしをしています。
物語は3月の終わりから始まります。
上げ馬の乗り子が決まる4月1日を目前に控え、マサキの祖父「馬屋のおっちゃん」の心は、早くもうきうきし始めていました。
馬を売っているわけでもないのに祭や馬のことならなんでも知っているおっちゃんは、みんなから「馬屋のおっちゃん」と呼ばれていました。
祭が大好きなおっちゃんですが、ここ10年ほど身内から誰も参加するものがなく、近所の子どもたちにも断られ、さびしい思いをしていました。
なんとかしたいおっちゃんは、孫のマサキを預かって戸津(とづ)の子として弓取りにしようと考えます。弓取りは乗り子の御付きをつとめる重要な役目です。
さいわい戸津の中には他に弓取りを志願するものがなく、おっちゃんの作戦はすんなり成功、大喜びなのでした。

 

乗り子は中学3年生のコウジ
ふたりの前に現われたのは、くり毛の馬サスケでした。
上げ馬に成功するにはまず馬に慣れ、馬との信頼関係を築かなければなりません。
上げ馬本番に向けて、マサキとコウジの特訓が始まります。

 

はたしてふたりはサスケと心を通わせることができたのでしょうか。
そして、コウジと馬は壁を駆け上がることができたのでしょうか。
つづきは作品をお読みいただければと思います。

 

現在4階歴史の蔵の前では「上げ馬神事~人馬一体の挑戦~」と題して、6月27日まで特集展示を行っています。

4階「歴史の蔵」の前で特集展示をしています。

上げ馬神事や多度大社の資料を揃えています。

P1080370

『ぼくがサムライになった日』も貸出しています。

北村さんは作品のあとがきでこう書いています。

 

・・・そして、あっという間に祭が過ぎ、そのあとにいやにおとなっぽい充実感と、はかなさのまじり合った、なにかあまずっぱいものまで感じたものでした。・・・

 

祭は、少年が成長していく中で経る、通過儀礼のひとつであるのかもしれませんね。
物語の最後に、祭を終えたマサキがシンガポールの父親に手紙を書く場面があります。そこにいるマサキは少し大人になっているようでした。

 

作者の北村けんじ氏より寄贈していただいた児童文学関係の資料は、「北村文庫」として桑名市立中央図書館に保管されています。
「北村文庫」については、また改めてご紹介したいと思います。

 

<参考資料>
ぼくがサムライになった日』 北村 けんじ/作,今井 弓子/絵  金の星社 1983 YL913キ
桑名市立中央図書館 開館10周年記念 地域文庫コレクション』 桑名市教育委員会事務局生涯学習課中央図書館 2015 AL026ク (☆希望者には無料配布を行っています。)
瞬間(とき)の浪漫 平成12年多度町勢要覧』 平成14年11月修正版 多度町(三重県) 2002 AG318.2タ
多度町史 民俗』 多度町教育委員会/編 多度町 2000 AL221タ

「志るべ」

2017年2月3日(金)PM1:34|投稿者:KCLスタッフ

諸戸家と桑名

「ブックとラック」をご覧のみなさま、こんにちは。
まだまだ厳しい寒さが続き、水道から出る水の冷たさに悩む< かぶら >です。

今は、水道の水も飲料水として使える程に綺麗になって久しい桑名の水ですが、古くは「白く濁った“桑名の蛤水”」といわれていたのをご存知でしょうか?kawa

 

 

 

桑名は木曽・長良・揖斐川の河口に位置する低湿地です。
そのため、桑名の水は飲料水として適さず、大山田川や町屋川から汲んだ水を飲料水として売り歩く“水売り”が成り立っていました。

しかし、桑名藩第4代藩主・松平定行の命によって、寛永3年(1626)に建設された「御用水道」(のちの「町屋御用水」)により、桑名の水は改善されました。
「町屋御用水」は明治に入ってからも使用されていましたが、人口の増加や水道の汚染、伝染病の蔓延によって上水道の建設は切実な問題となっていました。
しかし、上水道の工事には、莫大な建設費がかかるため、桑名町はなかなか着手出来ずにいました。

そこで立ち上がったのが、初代諸戸清六(1846-1906)です。
諸戸家は、初代清六以来の実業家の家系です。

もとは伊勢長島の庄屋でしたが、幕末の頃に桑名へ移り住みました。
当時の当主・清九郎が莫大な借金を残したまま没し、その跡を継いだのが、民治郎でした。
後の初代諸戸清六です。

初代清六は、莫大な借金を数年の間で全て返済し、その後は米相場や山林の経営で活躍します。
“日本一の山林王”として、その名を知られるようになりました。

上水道建設に悩む桑名を憂いた初代清六は水道建設を決意し、明治32年(1899)に水源調査を行い、桑名の西方の丘陵地を水源池とします。
その場所は昔から水質の良いところとして知られ、桑名藩第5代藩主・松平定綱が御茶の水に用いたとされる「御前水」の採り口となっていました。

町民の使用に耐えうる水量を獲得し、貯水池を設け、鉄管を敷設し、ついに明治37年(1904)6月に諸戸水道が竣工されました。

桑名町・赤須賀村の全域、益生村・大山田村の一部が給水区域で、総工費が約17万円かかりました。
当時の町財政が1万3千円余であったことを見ても、この工事がいかに巨額であったかがわかります。

初代清六はこれらを個人で支出しただけでなく、水は無料で供給し、維持経費3千円余も負担しました。

町屋御用水の給水範囲と比べると、町屋御用水が敷設されていなかった赤須賀が、諸戸水道には加えられたことがわかります。
これに感謝し、赤須賀には初代清六の水道事業顕彰碑が建てられました。

その後、昭和4年(1929)に桑名町により諸戸水道は拡張され、町屋川の伏流水を水源としたことにより諸戸水道貯水池は役目を終えます。
しかし、後に戦災により上水道が破壊された際には、再び諸戸水道貯水池が使用されました。

諸戸水道貯水池遺構(スタッフ撮影)

諸戸水道貯水池遺構(スタッフ撮影)

現在は水道としての役目を終えた諸戸水道ですが、桑名の近代化を示す重要な遺構として、「諸戸水道貯水池遺構」が昭和40年(1965)に桑名市文化財に指定されました。
また、平成20年(2008)には諸戸水道の配管経路図および貯水池と上屋の設計図の3枚が、「諸戸水道貯水池遺構 附 図面」として三重県文化財に指定されました。

初代清六が明治39年(1906)に亡くなって以降も、毎年3千円余の維持費が諸戸家より支出されました。
諸戸精太、二代諸戸清六兄弟から諸戸水道は付属設備と共に桑名町に寄付されます。
その際、大正15年(1926)3月31日までの維持費として金3千円も合わせて寄付されました。

長男・三男は早世しており、次男・精太は初代の屋敷を継ぎ、諸戸宗家(西諸戸家)を称しました。
初代の事業と名を継いだ二代清六は、初代清六の四男で名を清吾といいます。

桑名の観光地として有名な六華苑こと旧諸戸家住宅は、二代清六の結婚を期に、新居として大正2年(1913)に建てられたものです。
六華苑(旧諸戸家住宅)の洋館部分は、明治の頃東京の鹿鳴館を設計したことで知られる、イギリス人建築家のジョサイア・コンドルが設計をしました。

桑名市は、諸戸家より建物の寄贈を受け、敷地は購入しました。
建造物は洋館・和館共に重要文化財「旧諸戸家住宅(三重県桑名市)」として国の重要文化財に指定され、「旧諸戸氏庭園」は国の名勝に指定されています。

初代清六が購入した山田彦左衛門屋敷跡の庭園は名勝「諸戸氏庭園」として、こちらも国指定文化財に指定されています。

また、従来からの山田家の「御成書院」「推敲亭」「諸戸(宗)家住宅 煉瓦造 附 煉瓦塀 石造溝渠」などの建造物は三重県指定有形文化財となっています。

中央図書館には、諸戸水道の他、諸戸家に関する資料がございます。
ぜひ一度手にとってご覧ください。

▼参考資料
『諸戸水道調査報告書』(桑名市教育委員会/編,株式会社林廣伸建築事務所/編 桑名市教育委員会 2008)
『水道紛議 乙未の夢 完(コピー資料)』(桑名町 1895)
『桑名町上水道ノ概要(コピー資料)』 (桑名町水道事務所/編 桑名町水道事務所 1929)
『旧諸戸清六邸(六華苑)整備工事報告書』(桑名市・桑名市教育委員会 1995)

▼参考HP
桑名市観光ガイド
桑名市教育委員会文化財ホームページ
三重県 文化財データベース

< かぶら >

 

2016年10月24日(月)PM4:11|投稿者:KCLスタッフ

「桑名の打毬戯(だきゅうぎ)」をご存じですか?

こんにちは、「志るべ」です。
すっかり秋も深まってまいりました。
おいしいものの誘惑が多い季節ですが、スポーツの秋でもありますよね。
秋の味覚をたっぷりいただいた後には、しっかり身体を動かしたいものです。

 

スポーツといえば、桑名に伝統的スポーツ(競技)が残されていることをご存じでしょうか。
「打毬戯(だきゅうぎ)」といわれる競技で、江戸時代に桑名の藩校「立教館」で行われていました。
寛政の改革で有名な松平定信が白河(福島県白河市)藩主であったころ、藩校立教館に打毬を取り入れています。
『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』という江戸時代の書物(序文:文政13年)には、次のように記されています。

 

打毬の戯は昔江戸にて行れたりと云ふ今は奥州白川の諸士集て赤白の毬を打小門を設て打入先後相争て勝負を極む(後略)

 

文政6年の国替えにより、立教館とともに「打毬の戯」も白河から桑名へ移りました。
以前のブログ「渡部家の交換日記」でご紹介しました『桑名日記』には、孫の鐐之助が「だきうのまねする」(天保12年11月29日)という記述があります。
幼い鐐之助は石取祭だけでなく、打毬もまねして遊びに取り入れていたのですね。

 

明治以降は私塾を経て、立教小学校へと受け継がれていきました。戦争により中断を余儀なくされますが、昭和53年楽翁公150年記念大祭を機に復活しました。昭和55年からは立教地区大運動会(小学校と地区自治会により共同開催される運動会で、現在の立教大運動会)の中で行われています。
今年も10月2日、立教小学校において開催されました。

 

ではいったい「打毬戯」とはどんな競技なのでしょう?
『日本こどものあそび大図鑑』の「打毬」の項には次のように書かれています。

 

中国から伝わったポロのような球技。平安時代に宮中行事としておこなわれ、江戸時代に復興された。(中略)2組に分かれた騎馬(古代には馬に乗らない徒歩打毬もあった)の武士が、紅白の毬を毬杖(ぎっちょう)ですくい取り、毬門に投げ入れたほうが勝ち。後に子供がこれをまねして毬を打ち合う遊びができ、毬打(ぎっちょう)といった。

 

「桑名の打毬戯」はどうでしょうか?
復活にあたり、安全面に配慮しつつ伝統の競技を残す方法が考えられました。
現在は保存会のメンバーの指導のもと、立教小学校の5・6年生により行われています。
剣道着に襷(たすき)、はちまき、大将は陣羽織を身につけて、白い旗を掲げた「白虎隊」と赤い旗の「朱雀隊」に分かれて戦います。

白チーム「白虎隊」の旗。

白チーム「白虎隊」の旗。

赤チーム「朱雀隊」の旗。

赤チーム「朱雀隊」の旗。

競技は三種類に分かれています。
一つ目は、毬を打棒で相手ゴールに打ち込む「打毬」の競技。
大将がひとりひとりに采配を振って「打て」と命じ、それによって毬が打ち込まれます。
毬が入ると、それぞれ陣鉦(じんがね)、陣太鼓(じんだいこ)を鳴らします。「白虎隊」のゴール。陣鉦が吊るされています。

「白虎隊」のゴール。陣鉦が吊るされています。

「朱雀隊」のゴール。陣太鼓が吊るされています。

「朱雀隊」のゴール。陣太鼓が吊るされています。

二つ目は、毬を手で相手ゴールに投げ込む「玉入れ」のような競技。
線上に並べられた毬を手でつかんで相手ゴールに投げ入れます。

一列に並んだ毬を相手ゴールに投げ入れます。

一列に並んだ毬を相手ゴールに投げ入れます。

三つ目は、腕組をして枠内から相手を押し出す「押し合い」の競技。
以前は襷(たすき)の奪い合いなどがありましたが、安全面に配慮して、腕は身体の前で組んで手や足は出さないというルールに変更されています。

 

これら三種類の競技の得点を合計して勝敗が決まります。
今年は赤の朱雀隊の勝利となりました。
負けた隊は降参の意を示し、副将の「兵器はずせ」の号令で、旗を降ろし、襷(たすき)やはちまきをはずし、参謀と曹長はそれらを相手方に差し出します。

旗を地面に置きます。

旗を地面に置きます。

 

襷、はちまき、大将の陣羽織などをかごへ入れます。

襷、はちまき、大将の陣羽織などをかごへ入れます。

差し出す際には決まったセリフがかわされます。

 

負 「そまつな品だが受け取れ」
勝 「負けたのに言葉が悪い。もう一度出直して来い」
負 「大切な武器だが、負けてやったから渡しに来た」
勝 「まだ言葉が気に入らん。どうぞお受け取りくださいと言え」
負 「どうぞ受け取ってください」
勝 「よし。受け取ってやる」

 

この負け惜しみの言葉には、見学の人々から笑いがこぼれていました。
それぞれの役割には決まった言い回しがあり、口上やセリフを覚えるのはたいへんなのではないでしょうか。
勝った隊は副将の「ひーのふーの」という声に合わせ、全員で「うぉーい」と声をあげながら、ひざまづいている相手方の回りを一周して退場します。その後、負けた隊も立ち上がり無言で退場します。
古式ゆかしいルール(安全面を配慮した上で)によって繰り広げられた戦いは終了しました。

 

遠方から、桑名の打毬戯の調査に図書館へ来られる方もいらっしゃいます。
その際に、鹿児島には「ハマ」と呼ばれる円盤を棒で打ち合う「ハマ投げ」という打毬があることをお聞きました。
打毬にもいろいろな形があるのですね

 

 

桑名の打毬戯は地域参加の運動会で行われ、保存会を初め地域の人々の想いが受け継がれた競技といえます。
図書館では「桑名の打毬戯」を映したDVDを館内で視聴していただくことができます。
ぜひ一度、桑名独自の打毬戯をご覧ください。

 

<引用・参考資料>
嬉遊笑覧(序文:文政13年)』 喜多村 信節/著 緑圓書房 1958 031キ(書庫)
桑名日記 2』 渡部 平太夫政通/著, 澤下 春男/訳 ぎょうせい 1984 AL221ワ(桑名三重)
日本こどものあそび大図鑑』 笹間 良彦/著画 遊子館 2005 R384.5サ(調べる)
日本遊戯史』 酒井 欣/著 第一書房 1983 384.8サ(歴史の蔵)
三重県の祭り・行事』 三重県教育委員会 1997 AL386ミ(桑名三重)
打毬戯』 打毬戯保存会 1989 L783タ(歴史の蔵)
立教百年誌』 立教開校百年記念会 1973 L376ク(歴史の蔵)
打毬戯(DVD)』 桑名市教育委員会 (館内視聴)

<志るべ>